みんなちがってみんないい

日々の生活

現代は多様性の時代、ダイバシティ、インクルーシブといった言葉が多用されるようになってきました。大変良いことだと思いますし、これからの社会では今後もキーワードになってくるものだと思います。そんな中、「みんな違って、みんないい」という言葉を聞いたときに私自身、少し引っかかってしまうことがありました。長年、何が自分自身の中で引っかかっているのか、わからなかったのですが、最近、それがわかってきました。それは、「みんな違って、みんないい」という言葉は大変「優しい言葉」だけれども、自分自身の主張を通すときに使うと、わがままになってしまうこともあるということです。どういうことかというと、例えば数学が嫌いな人がいたとしましょう。その人が、「みんな違ってみんないいんだから、私は数学嫌いでもいいじゃないか。苦手でもいいじゃないか」と主張したとしましょう。もちろん、その気持ちを否定するわけではありません。そこに至るまで、嫌な思いをしてきたのでしょうし、苦しかった経験があるのでしょう。しかし、私がもし、それを生徒に言われたときに、「そうだよね。みんな違うんだからしょうがないよね」と受け入れてしまうと、その人に数学の楽しさや、有用性や、ロジカルシンキングを成長させる機会を奪ってしまうことになってしまいます。だからこそ「そっか~でも、そんなあなたでも、数学の楽しさや、できるうれしさを伝えるのが、先生の仕事だよ」って言いたいなぁって思っています。つまり、「みんな違って、みんないい」というのは、「自分が大切にしているものは、他者と違っていてもそれでいい」という自分の権利や自由、価値観の正当性を主張するために使うのではなく、「他者が大切にしているものは、自分と違っていてもそれでいい」という他者の権利や自由を認めて、相手を理解するために使った方が、本当の「優しい言葉」になるのではないかと思っています。

少し難しい内容になってしまいましたか?なぜこんなことを書いているかというと、学園祭などの行事を行うと、友達が大切にしているものと、自分が大切にしているものがぶつかることがあります。そんなときも、それぞれが自分の正当性を主張しても、解決できない場面があります。そんなときに、相手が大切に思っているものは自分と違うけれども、それでいい。その思いも大切にしながら、新しいアイデアは生み出せないかという思考を働かせてほしいと思います。体育部門の取り組みであったり、合唱の取り組みであったり、それぞれの場面で、いろいろな友達の大切が出てくるはずです。是非参考に!