目的?手段?

毎日の話

私も教師という仕事を続けていると、少しずつ見えてくるものが増えてきます。その1つが、生徒の提出物への取り組み方の意識の違いです。もちろん提出物や課題が好きな人は、ほとんどいないはずです。しかし、その嫌いなものをどのように取り組んできたのかの差は大分あります。みなさんは提出物って何のために取り組んでいますか?「評価」のため?「出さないと怒られる」から?もしそのように考えているならば、課題はとりあえず埋めただけの、やっつけ仕事に近いものになっているはずです。どういうことかというと、「目的」が曖昧になって、とりあえず出すこと、「手段」が「目的化」している。そうすると何のために提出しているかわからないものが、私の手元に届くことになります。逆に、目的が「自分がその教科の内容をしっかり定着させるため」であったり、「自分の能力を高めるため」であったりする人は、提出物自体の内容の取り組み方が全然違います。もちろん、その人の方がテストの点が高いのは言うまでもありません。これは、何も定期テストの課題だけでなく普段から言えることです。例えば、毎日の生活ノートも、出すことが「目的」になっていると、とりあえず適当に書いて出すことになります。その行為自体には、何の意味もなく、あるとするならば、手首のスナップの練習が少しできるだけです。生活ノートを書く目的を、「日々の反省をして成長するため」であったり、「自分の考えたことを文章化すること」であったりする人の生活ノートは質が違います。

これはこれからの人生でも同じですが、自分にやってくる課題であったり、乗り越えるべき壁だったりは、「自分をピカピカに磨き上げるために自分にやってきている」と私は考えています。どういうことかというとイメージしてみてください。自分自身が自然界から採掘された原石だとします。それ自体は外から見ると、ただの石ころで、価値も綺麗さもわかりません。しかし、何回も研磨し、磨き上げ、特殊なカットをすることで、人々から求められる宝石に生まれ変わります。人間もそうではないかと思っています。その人自身が、自分自身を磨き上げることをしないと岩石のまま。中にとてつもなくキレイな宝石が眠っているかもしれないのに。しかし、それは自分自身でも何が埋もれているのかわかりません。さらにどんな磨き方をすればいいかもそれぞれ違います。だからこそ、色々な経験をして、乗り越えていくことで人間は磨かれていくのではないかと思います。それが今みんなにとっては勉強ではないかと思います。もちろん嫌いな教科や、苦手なものもあると思います。しかし、宝石を磨くときも、やわらかい布だけでは磨けないのです。やすりのようなギザギザしたもので削ることも必要です。自分自身の優先順位が低いものをカットしていくことも必要です。これから自分にやってくる物事の「目的」を大切にして、「手段」と「目的」をはき違えないようにして努力していってほしいと思います。是非参考に!